昔、大化改新(645年)の後、埼玉・東京・神奈川(の一部)は武蔵国として統一され、それまでの知知夫は「秩父」と改められました。ヤマトタケルが甲冑を岩室に奉納した伝説に由来する武甲の名も、江戸期以前は、古い順にタケ・ダケ(嶽)、タケヤマ(嶽山)、秩父嶽、祖父ヶ嶽、武光山、妙見嶽(名剣山)、妙見山、そして武甲山と、歴史の曲折点とともに変遷してきています。
徳川幕府の頃、築城に街造りに石灰岩の需要は増し、青梅や足尾など、山は次々と開発されましたが、武甲山は、札所御開帳に多くの巡礼を集め、祭りや絹大市などで栄える秩父を護る山として、大正期まで本格的に開発されることはありませんでした。
古来より武甲山は、秩父の神奈備(かんなび)山であり、神霊が鎮座する山として、山の自然の神代(かみしろ)として、里人をはじめ多くの人々の信仰の対象となっております。
武甲山の歴史をたどってみると、現在の「武甲山」と呼ばれるようになるまでに、いくつかの山名が移り変わっています。これらの山名の変化にはそれぞれの時代に秩父を代表する権威者(政治的・宗教的)の名前、または神の名が反映されています。武甲山は秩父の歴史の中でも、聳え立つ象徴であったのです。
嶽(嶽山) たけ(たけやま)
古い時代、まだ言葉のみ用いて文字を持つにいたらなかった頃には「たけ」・「たけやま」と呼んでいました。人々にとってこの山は秩父の象徴であり、神奈備山(かんなびやま-神様のこもる山)として崇められてきました。この山名は現在「武山」(たけやま)に残っています。
知々夫ヶ嶽-秩父ヶ嶽(ちちぶがたけ)
第10代崇人天皇の時代に、知知夫彦命が知知夫の国造に任命され、秩父神社を拠り所にして神体を奉祀しました。知知夫国時代へ入った時点で「知々夫ヶ嶽」と呼ばれるようになりました。江戸時代の文献に「秩父山」と見えるのは古代の名残でしょう。
祖父ヶ嶽(おおじがたけ)
大宝律令が制定(701年)されて、武蔵国初代の国司として赴任した人物が引田朝臣祖父です。この名前が冠せられて「祖父ヶ嶽」と呼ばれるようになりました。
武光山(たけみつやま)
平安時代、山麓地域に武光庄という荘園が成立しました。武光とは荘園の開発者名であったのでしょう。これによって「武光山」と呼ばれるようになりました。
妙見山(みょうけんやま)
1235年秩父神社は落雷により炎上しました。これ以降同社に妙見大菩薩が合祀されその後秩父妙見宮として隆盛しました。これにより神体山の名称も「武光山」から「妙見山」へと変化しました。
武甲山(ぶこうざん)
日本武尊が登山されて武具・甲冑を岩蔵に納め、東征の成功を祈ったところから山名が「武甲山」になったという伝説が元禄時代の頃から秩父の人々に伝承され定着しました。